西南学院大学柔友会

輝かしい60年の伝統【西南学院柔友会】

「九州学生柔道連盟25年誌」より抜粋

(昭和52年5月20日発行)

 

 西南学院大学柔道部は、大正5年に学院中学部創立と同時に、柔道愛好者が集まり産声をあげた。西南体育会一番の古参である。当時九大医学部のインターンであった大野六郎氏(当時三段)を師とし、古屋改蔵(古屋工業所)奥山英一郎、井上弘、古賀連(故人)樋目路郎、平賀行太郎(元財館商社)、中嶋作蔵諸氏を中心に部活動を始めた。大正9年になると、西文雄氏(当時三段)を新しく師範に迎えた。当時は町道場が盛んで学校対抗試合は少なく、大きな大会としては福岡日日新聞社主催の中学武道大会があった。この参加校は、福岡師範、旅館館、福中、福工、福商らで、遅れて別に高専大会が開かれ学院高等部(現在の大学)が出場して好成績をあげていた。

 

昭和3年、学校対抗試合もしだいに盛んになり、遠く大阪から関西学院大学が遠征してきた。その頃から我部は充実し、上昇気運高まる。昭和4年には九歯、九医、本校三高専リーグ戦が発足した。昭和5年に新しく師範に藤野善次郎氏(故人)コーチに前五高大将太田三段、佐高出身永三段を迎え、我部は発展の途につく。昭和7年4月、四高専リーグ戦において本校は対福高戦で樋口、蒲池両氏の目覚ましい活躍と、選手全員の闘志で強豪福高を破り、我部の意気天を突く。

 

高専柔道は寝技主体で、白帯が二、三段と軽く引き分けることが多くそのため試合で’は作戦が重視された。試合は十五人の勝抜戦で、試合時間は大将30分、副将20分、一般10分と分かれていた。寝技主体で、試合開始と同時に両者が長時間寝たままだから、華々しい投げ技は見られず、一般観客には、あまり受けなかった。西南柔道部には個人的に活躍した選手が多く、現在西南柔友会長である長東正之氏(福岡市助役)はこのころの選手である。

 

昭和10年頃の公式試合は福岡地区四高専リーグ戦(九歯、九医、福高、本校)と四帝大主催全国高専大会西部予選があり、この全国高専大会には遠く上海(東亜同文書院)や旅順からも参加校があった。昭和11年頃、我部の部長杉本勝次先生(後の福岡知事)が作詩され、当事の部員北原歳雄氏の長兄が作曲した部歌ができた。「嗚呼玄南の明け暮れを」で始まる名部歌である。これは代々伝えられたが、戦後一時中断し、昭和39年になって再び歌われたした。

 

昭和15年の部員たち。前列の左端中島健午、

その右は山中靖彦両選手

 昭和10年以降活躍した選手に蒲原高当、鍋山礼助(大山酵素)嶋田吉之助(死亡)山中靖彦(九州電力)と言った強い選手が居たが、チームとしては選手層がうすく、優勝の栄冠を得る事は出来なかった。昭和17、18年頃は特に戦争の影響を受けた時である。学生は断髪令で坊主頭であり、教練を受け、昭和18年の卒業生は7月に繰り上げ卒業をしている。だがその上うな時でも柔道を愛する若者達によって続けられた。試合は年に二回行なわれ、試合時間も一般5分、副将8分、大将15分と短かくなってきた。

 

 柔道部OB会が発足したのもこの頃で、藤野師範の働きかけで作られた。その後、しだいに戦争が激しくなり、部は一時中断をやかなきに至った。昭和20年に戦争は終わり、敗戦国の我国は武道を禁止されていた。したがって柔道部も静かに眠り、目覚めを待っていた。

 

昭和23年に夜明けが我部にやってきた。当時ボクシング部で活躍していた入江一郎氏(入江クリーニング店自営)は、家庭の事情でボクシング部をやめ、同クラスの自称初段5・6人で柔道部復活を図った。県庁や教育庁に何度も足を運んだ結果、同年十月同好会を作るまでに至った。同好会はできたが道場がなく、今川橋にあった町道場「游就館」や鳥飼神社内にある「振武館」を借りて練習に励んだ。当時は柔道着を売っている所はなく、部員達はいろいろ工夫して練習に励んでいた。

 

 昭和24年に我部は西福岡警察署と練習試合を行った。その時、中野龍登氏(後に明大へ行き活躍)が一人で15人抜きをやっている。昭和25年は西南学院大学の開校の年であり、又部に昇格した年でもある。部長に古賀教授(元学長)監督に渕上政夫氏、師範に藤野善次郎氏を迎えた。部員は七人。まだ学校には道場がなく、西署の道場を借りて練習に励んでいた。その年の6月、我部は福大と15人抜き試合を行ない、坂本恒喜選手(福銀)が活躍、本学は副将、大将を残して勝利を収めた。この試合には部員が少なく、ラグビーやボクシング部から部員を拝借して臨んだ。

 

 当時の試合でのエピソードを一つ紹介しよう。それは対九大戦の時である。大将入江は相手を引っぱり回し、暴れ回ったあげく巴投げで倒し最後の礼をした。そしてみんなの方をふり向いて嬉しさのあまり万歳をしたまでは良かったが、そのまま気絶して倒れてしまったという。精魂のつきるまで戦った闘志、これこそスポーツマンの根性ではないだろうか。26年は大学柔道が盛んになった年であり、翌年には全国的になってきた。我部も同年から実力を発揮、部員達は学校で練習するでなく、町道場に通い技を磨いていた。当時の試合は7人制の全国大会予選九州大会と、10人制のインカレがあった。7人制では九大が強く、10人制では粒の揃った本学が強かった。戦後の我部の復興期の困難な時期に、当時師範であった渕上氏を始め嶋田、山中、原(商工会議所)両氏にはいろいろな面でお世話になった。特に渕上氏の我部に対する愛情は、なみなみならぬものがあり、今日に到るまでずっとお世話していただいている。精神的、経済的に援助して下さった事は忘れられない。

 

昭和27年 九州インカレで優勝 中央は藤野善次郎師範

全盛期の戦績

 

 九州大会は昭和27年から連続4年間九大に敗れ準優勝、九大と共に全国大会へ出場。全国大会では昭和27年に一回戦で法政大に敗退。昭和28年は一回戦は強豪拓大を苦戦の末二対○で敗り、続く二回戦は優勝校の明大に敗れる。29年は一回戦千葉大に勝ち、二回戦は前年同様明大に敗れる。この試合で本学上村初段は、明大山尾四段から一本背負い技ありを取り、優秀選手に選ばれた。インカレは昭和27年修猷館で行われ、本学は八幡大を敗り輝かしい初優勝を成し遂げた。昭和28年は八幡大で行われ連続優勝、全九州に敵なしの感。昭和29年は惜しくも決勝戦で九大に敗れ三連勝成らなかった。

 

 当時、本学には、個人的にも優秀な選手がいた。九州学柔連の推薦で全日本東西対抗試合に、昭和27年には上田(西区郵便局)長(九電東営業所)両氏が出場。昭和28、29年には小田部(富士電機)長の両氏、昭和30年は四年連続長氏が出場した。この大会にはほとんど九大と本学が選ばれていた。特に後に我部の監督もした長氏の活躍が目覚ましく、昭和28年には金沢大の近谷三段、早大川畑四段を共に横四方に破り、西軍より唯一の優秀選手に選ばれ、昭和30年の全日本学生選手権大会において拓大の大将清水四段を鮮やかな十字固にて制する等、まさに寝てよし立ってよしと言う言葉にぴったりする優秀選手であった。

 

第4回九州学生柔道大会で初優勝し優勝旗をうける

長久人主将(昭和30年6月5日)

 船越前学長が昭和29年に部長に就任された。般越先生が部長になられた頃が我部の全盛期であった。船越先生にもいろいろとお世話になり、学長になって部長はやめたけれども、道場や試合場、コンパ、会合などにも顔を出し、我部のために蔭ひなたになって面倒を見てもらっている。

 

 昭和30年には、我部にとってもう一つの大きな試合であるミッション大会が始まった。これは昭和27年の全日本東西対抗試合の時に本学の長氏と同志社大の本郷、和田田氏の間で基倍数関係大学が集まって試合を行おうと話が出た事がきっかけであり、昭和30年の7月、全国大会の時に和田、古賀(本学の主務・九電工)田氏の話し合いで決定した。昭和34年には本学が当番校となり、西村(大英工業)城戸(日本アベスト)両幹事と有吉主務(東洋インキ)を中心に、全部員が団結して当番校の役目を無事にはたした。

 

昭和33年以降、我部は優勝の声から遠ざかったが、個人的には優秀選手がいた。昭和33、34年の南北対抗試合で優秀選手に選ばれた井上(九銀不動産鑑定所)阿部(マエサキ)の両氏。又各大会で好成績を残した宮下氏(阪神自動車リース)等がいる。昭和33年12月12日、この日は我部にとって悲しみの日となった。本学名誉師範藤野善次郎氏が亡くなられた日である。藤野氏は我部の創世期から尽力して下さったのであり、長年我部の面倒を見て下さった。我部の発展は藤野氏の力であったと言っても過言ではなかろう。

 

 昭和43年に日休大の主将として活躍されていた森本氏(西南大助教授)が我部の監督として就任された。その頃から我部は着実に実力を発揮しだし、昭和48年以降有望な新人の人部等により、昭和49年には森本監督、山下主将(福岡県警)を中心にして実に20年ぶりに全日本学生柔道大会に出場した。この当時は全日本学生柔道大会出場権の獲得という大目標のために、部員一丸となって火の出るような練習を行ったものである。また昭和51年にも全日本学生柔道大会に出場したが、全日本の壁は仲々厚く両大会とも一回戦で敗退した。しかし九州においては我部は確固たる地位を築いた。その年の11月21日、福岡県学生柔道優勝大会において、この試合は十人制の勝抜き勝負であるが、強豪福大、九産大を敗り、念願の優勝を堂々と飾った。

 

第23回九州学生柔道大会で第3位、19年ぶり

全日本出場権を獲得(昭和49年5月19日)

昭和51年には西南創立以来初めての海外遠征を行い、台湾の人々と友好親善を深めて来た。近年、隆盛の気運に乗っているが、前途はなかなかきびしい。原因は部員と資金不足等である。が、こういう困難を乗り越えてこそ、発展があると信ずる。これからも西南体育会で一番歴史のある伝統と、先輩が血と汗で積み重ねてこられた西南柔道端をそこなわないように、ますます努力するつもりである。